人生というゲームの新しい遊び方

「あまのじゃくで生きよう」~完全に自由な状態で本音を問えば自分が見えてくる~すべての人が成功する天国の方法

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新しい時代に向けて何を心得ておけばよいか 3

これは、「トータルライフコンサルタント」長谷章宏氏の著作『人生というゲームの新しい遊び方』より抜粋したものです。

この著作は初版1刷発行が1994年3月25日であり、約14年前のものですが、まさに今の時代を予想していたかのごとく、現在の社会状況にピッタリの内容となっております。

今、まさに、歴史上かつてない激動の時代です。この激動の時代に、すべての人が成功する天国の方法として、毎週2回、著書より抜粋して掲載してまいります。

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(連載 No.22)

新しい時代に向けて何を心得ておけばよいか 3


 自分のしたことはすべて自分の責任である
 あなたは今まで、自分の思いどおりにならないと感じたとき、何かの責任にしてきたことがたくさんあると思います。でも、それはすべてあなたが選んだ考え方に基づいて、あなたが決めた行動をした結果ですから、本来は、すべてあなたの責任なのです。
 あなたも、あなた以外の人も、すべての人が同じことをしています。あなたが、誰かと何かをしたとき、それは、それぞれがそのルールに同意して(一緒にゲームをすることに同意して)、自分がすべて責任をとるという前提で一緒にゲームをしているのです。その結果については、どんな体験をしようと、お互いに自分の責任です。つまり、わざわざ「責任追求という嫌なゲーム」をする必要はないのです。
 「責任追求」というゲームは、自分の責任を回避しようという目的で、お互いが自分の理屈で創り出す単なるゲームに過ぎません。「どちらが悪いか」という判断の材料(=理由)は、「相手が如何に悪いか」ということを証明をする(つまり、それによって自分の正しさを証明する)のに都合よいものだけを、たくさんの「証拠」の中から選んでいるだけに過ぎません。「悪い理由」という決まったものものがあるわけではないのです。裁判というのは、「法律」という基準に照らして、善し悪しを判断しているだけで、その「法律」自体が、「正しいもの」だというわけではないのです。
 法律というのは、「こういうことをすることは悪いことだ」という理屈に基づいて決めた単なるルールです。都合が悪ければ、幾らでも変えることができるのです。よって、「責任の所在」も、移動することになります。本来は、責任追求ゲームというのは、どちらかが「自分が悪い」と折れるまで、永遠に続くものなのです。
 あなたがどんな考え方をするかは、すべてあなたの自由な意志(そこには同時に、その結果についての責任をとるという態度が含まれています)で決めているのです。自分が自分の意志で選んだものは、その結果についてはすべて自分の責任なのです。自分のしたことを誰かの責任にしようとしても、それは自分勝手な責任回避ゲームが創り出されるだけです。
 今までの人生の中で、あなたが行動してきたことは、理由の如何を問わず、すべてあなたが選んだものなのです。「誰かが言ったから」「常識だから」と言ったとしても、「誰か」や「常識」に責任はありません。あなたが行動した結果は、すべてあなたに戻ってくるのです。
 あなたと誰かが同意して何かをしたとき、その結果については、お互いに自分に責任があるのです。どちらの責任が重いか、という議論は、本来成り立ちません。新しい生き方において大切なことは、トラブルを創り出している重要な要素である「責任」という考え方について、もう一度、考え直してみることなのです。

 ものごとの価値はすべて相対的なもの
 あなたの今までの人生で、強制的に思えたものも、当たり前のように信じていたものも、本来は一つの見方に過ぎません。それ自体には、何の意味も、強制力もないのです。今までそういうものだと教えられなかっただけのことです。
 どんな考え方(=観念)にどんな価値を当てはめるかは、すべてあなたの自由なのです。ということは、本来、あなたが持っている考え方を人に押しつけることもできないのです。あなたができることは、あなたの考え方を別の人に分かち合うことだけです。お互いがお互いの考え方を出し合い、使えるものがあれば使い、変えたほうがいいと思えば変える。お互いの人生の為の教材として提供し合うことができるだけなのです。今までは、お互いの考え方を、損得や善悪、正誤で価値判断をし合うこと、そして、それがあたかも「絶対的な評価」のように受け取ってしまうことで、たくさんのトラブルを創り出していたのです。
 価値評価というのは、基準をどこにおくかということでいくらでも変わります。あなたの考え方に対する評価というのは、その集団、そのルール、その基準の中でのものに過ぎないということを常に理解していることが大切です。そうでないと、あなたの意見がすべて否定されたとき、自分が駄目人間のように思い込んでしまうことになってしまいます。
 「社会の常識」というのも、あなたが知っている範囲の人がそういっているだけで、あなたの知らないところでは、「社会の常識」が「非常識」になっていることもあるのです。
 すべての考え方、観念というのは、絶対的な意味はなく、正しくも間違ってもいないということです。言い換えれば、どんな意味でも付けられる、何とでも言えるということです。それをよく覚えておくことが、あなたの体験を創っていく上で非常に重要なことになるのです。

 評価というのは評価する側の表現
 すべての評価というのは、「相対的な評価」です。「絶対評価」といわれるものがあるといっても、それも、「評価する人の基準によって変わる相対評価」です。「学校の評価」や「会社の勤務評定」も、すべてそうです。評価する人が「絶対評価をする」と言っても、必ず、人と人を比べています。前例と比較しています。何かの行動ができたかできないか、という判断も、その人がどう判断するかという問題です。判断の基準という境界は、その人の都合で、瞬時に、いくらでも移動することができるのです。
 「判断基準」というのは、もともと、それを創り出す人が決めた境界を表現したものに過ぎません。そして、どんなに正確に文章に表したとしても、その文章を読んだ人が、自分の定義付けで自分流の解釈をして、その基準を自分の中に取り込んで、その人流の評価するのです。表面上はどうであれ、基準が同じだからといって、全く同じ評価をするということはないのです。
 「人物評価」というのは、実は、評価されている人の価値ではなくて、評価をする側の「価値観の表現」なのです。それは、評価の対象としている人の表現しているものを見て、自分の中にある基準に照らし合わせることで、価値判断をして、その結果を表現するゲームに過ぎません。評価とその対象の人物像は、全く関係がないのです。「A君は六○点だ」「Bさんはハッキリと話す」と言っても、それはただそういう現象だということであって、その人自身の評価とは一致しないのです。六○点が何なのか、ハッキリとはどういうことなのか、評価した結果というのは、評価する側のモノの見方を形にしたものに過ぎないのです。
 人を評価した結果というのは、「こういう行動は自分はこういうふうに価値判断しています」「自分がこの文章をこういう解釈をして評価しています」と、自分の中の価値観を公表しているようなものなのです。

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最新の連載記事は、先行して「都の風」(TLC匠公式WEBサイト)にてご覧いただけます。


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